2017-02-22
雛祭りの歴史は古代中国の上巳節までさかのぼります。「上巳の節句」「弥生の節句」などの呼び名があり五節句「人日」(1/7じんじつ・七草の節句)「上巳」(3/3じょうし・じょうみ・桃の節句)「端午」(5/5たんご)「七夕」(7/7しちせき・たなばた)「重陽」(9/9ちょうよう・菊の節句・不老長寿を願う)の一つにあたります。
雛祭りの起源は中国漢の時代の徐肇(じょちょう)が3人の娘を儲けたにも関わらず3人供3日以内に亡くなりその嘆き悲しむ様子を見た村人が酒を持ち3人の娘の亡骸を清め水葬した事に由来しています。
それが平安時代になると「上巳の祓い」と言って3月3日に陰陽師を呼びお祓いをさせ
自分の身に降りかかる災難を紙人形(かみひとがた)に生年月日を書き川に流しました。
この厄払いの様子は今でも下鴨神社で行われる「流し雛」の行事に再現されています。
ひな壇を設ける様になったのは江戸中期からで京都では宝鏡寺が別名「人形寺」とも言われ光格天皇遺愛の品の他多くの人形が納められています。
10月には人形供養の行事も行われます。
室町時代になると人形が立派になり流すものから飾るものになり上流階級の子女の嫁入り道具の一つになりました。
江戸時代に桃の節句が女の子の節句に定められると更に華やかさを増してひな壇に人形を飾る様になりました。
雛人形の移り変わりは江戸時代の初期は男女一対の人形を飾るだけでしたが時代が経つ
につれて十二単の装束を着せた「元禄雛」大型の「享保雛」など金屏風の前に人形を並べる立派な物へと変わって行きました。
後期になると宮中の装束を再現した「有職雛」が作られ更に現代の雛人形につながる「古今雛」が現れます。
幕末頃には官女やお囃子と言った添え人形や嫁入り道具、御殿段飾りなどが増えスケールが拡大し現在の雛人形へと繋がります。
桃の花には元々魔除けや長寿のパワーがあり中国では上巳の節句は旧暦の3/3はちょうど桃の花が咲く頃だった為、雛祭りに桃の花が飾られる様になり「桃の節句」とも言います。
※奇数が重なる日は邪気を払う事が出来ると言われています。